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東京都板橋区の歴史
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所在地 板橋区常盤台1-43

 誠の碑
警視庁板橋警察署 宮本邦彦警部は、平成19年(2007)2月6日、自らの命を賭して人命の救助にあたられました。
「誠の碑」は、宮本警部が警察学校の卒業アルバムに寄せた「誠実」「誠心」「誠意」という心根を具象化し、制作いたしました。
碑の文字は、小山天舟日本書道美術館長の揮毫によるものです。
 誠の火 燃やしつづけし 君がみ魂
   受け継ぎゆかむ いつの世までも     天舟詠
 記念碑設置に際し、数多くの方々より善意のご寄付を賜りました。
 ここに感謝の意をこめて記します。
平成19年(2007)6月 宮本警部の記念碑を設置する会






所在地 板橋区常盤台2-13-7

 常盤台・斯波家住宅

木造二階建・近代和風建築 
登録年月日  平成20年(2008)3月27日
所有者     斯波都代子氏・斯波 寛氏
 ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし、昭和8年(1933)~昭和13年(1938)に駅の開設を含めた26万4千㎡に及ぶ区画整理により造った街で、住宅地は「常盤台住宅」と呼ばれています。
 しかし近年、建物の老朽化・生活様式の変化に伴う建替えや、相続による土地の細分化等で建築当所の建物が少なくなってきました。
 この住宅も、平成16年(2004)に建築当初の形を維持できなくなる事態が生じましたが、現所有者は建築物の価値の重要性を鑑み、建物の二階部分と北側一部分とを曳家して保存しました。
 建築当初と比較すると規模は縮小され、位置も同敷地内にて移動していますが、広縁を含む四部屋が屋根を含めて建築当初のまま残っており、「常盤台住宅」の歴史を伝えるうえで重要な建造物です。
 平成21年(2009)3月 板橋区教育委員会


所在地 板橋区大谷口2-8-7

真言宗豊山派
 宝樹山 盛徳院 西光寺

 豊島八十八ヶ所霊場80番札所

 板橋七福神布袋尊

本尊    聖観世音菩薩
開基    覚印  寛永20年(1642)
総本山   長谷寺 奈良県桜井市初瀬
祖師    宗祖   弘法大師(空海)
       中興祖  興教大師(覚鑁)
       派祖   専誉僧正

 御本尊聖観世音菩薩。宗派真言宗豊山派。宝樹山盛徳院と称する。
 古くからこの地にあった一観音堂に大野清右衛門が田畑を寄進し、堂宇を建設したことから始まるという。『新編武蔵風土記』では、開山を承応3年(1654)8月寂の宥音とするが、当寺所蔵の古文書では、開山を慶安4年(1651)6月寂の覚印とうる。いずれにしても、当時が1640年代には開山されていたことは明らかである。
 明治3年(1870)住職広沢賢隆は、境内に一棟を建てて寺子屋を開設し、明治9年(1876)に上板橋学校が開設されるまで近所の子供に教育をおこなった。
 昔話で有名な、しろかき地蔵(石造・高47cm)は、現在は同寺境内に安置されている。同地蔵は、昭和62年(1987)度の板橋区登録有形民俗文化財(信仰)に認定された。
 平成6年(1994)8月 板橋区教育委員会







 西光寺には『大谷口の代かき地蔵』があります。


所在地 板橋区大谷口2-8-7 (西光寺)

 大谷口の代かき地蔵
 そのむかし、大谷口村に日頃から仏様を深く信仰していた心やさしいお百姓さんがいました。明日は村中あげて一せいに田植えをすることになっていました。お百姓さんは、明日の田植えに間に合うように、汗を流して一しょうけんめい働きました。しかし、あたりがうす暗くなっても、代かきは半分もできていませんでした。お百姓さんは、あぜに立って、もう暗くなってしまった田んぼを眺めながら「ああ困った、明日の田植えをどうしよう・・・」と、大ため息をしていると、どこからともなく若いお坊さんがちかよってきて
「何かお困りのごようすですネ、代かきが終えなかったんですか・・・」と、やさしく話しかけてくださったかと思うと、いずれへか去っていってしまいました。
 一夜あけて、田んぼに来てみると、びっくりしました。さしもの広い田んぼは、きれいに代かきがすまされて、朝日がさんさんと田の面を照らしていました。驚いたお百姓さんは、あたりを見わたすと、田んぼの泥土がてんてんと、田から丘の草原につづいているのに気づきました。泥のあとをたどると、丘の小さなお堂にまでつづいています。お百姓さんは、不思議に思いながら、お堂のとびらを開けてみますと、中に立っていらっしゃる石のお地蔵さんは、腰のあたりまで泥だらけでした。
 お百姓さんは、お地蔵さんが一晩のうちに代をかいてくださったにちがいないと思って涙を流してお礼を申し上げました。お地蔵さんはやさしいお顔をして、お百姓さんをじっと見おろしていました。
 大谷口村の人びとは、それから後、このお地蔵さんを「代かき地蔵尊」とあがめて、あつくお祭りをいたしました。
 さいこうじ








所在地 板橋区大谷口上町15-1

浄土真宗本願寺派
 遥照山 慈光寺
 


所在地 板橋区大谷口上町89-1

 氷川神社
 当社は古来大谷口村の鎮守で、速須佐之男命(はやすさのおのみこと)、大雷命(おおいかつちのみこと)、木花佐久夜姫命(このはなさくやひめのみこと)を御祭神としている。
 延宝2年(1674)の御水帳に、「末社浅間社の御除地当村のうちに二十四坪」と記され、同様に末社稲荷社、鳴社、鹿島社、須賀社についても記載されている。このことから当社は延宝年間には既に創建されていたことが明らかである。
 古くから大谷口村民の信仰をあつめ、毎年1月19日には稲荷毘射、氷川毘射の神事が行われている。
 平成5年(1993)2月 板橋区教育委員会











所在地 板橋区仲町44-1

浄土宗
 亀鳩山 専称院 地蔵寺
 宗派は浄土宗で、亀嶋山地蔵寺専称院と号し、御本尊は阿弥陀如来です。
 むかし鎌倉時代の武将豊島清光が行基に七つの地蔵を作らせたという伝説があり、専称院の前身は豊島村(現北区)でそのひとつを祀る地蔵堂でした。
 浄土宗の専称院となったのは、宝永年間(1704~1711)に豊島村民臼倉四郎右衛門の要請を受けた祐天上人によって中興され、堂宇の整備が進んでからです。荒川沿いにあったため、寛政12年(1800)水害の溺死者の供養等が建てられるなど、水難者の供養寺としても著名でした。専称院が都市計画道路建設によって豊島から当地に移ったのは昭和12年(1937)ころのことです。
 もともと当地には、江戸時代初頭まで乗蓮寺があり、その後も乗蓮寺に付属する香林庵が残っていました。香林庵は明治7年(1874)に区域で初めて公立の小学校が設置された場所ともされています。
 平成15年(2003)3月 板橋区教育委員会




 


所在地 板橋区仲町46-3

 轡神社
  御祭神  倭建命(やまとたけるのみこと)
 もと轡権現社と呼ばれていました。名称の由来については、この地を訪れた徳川家康の乗馬のくつわを祀ったからとも、また馬蹄を祀ったからともいわれています。江戸時代から「百日ぜき」に冷厳がある神として広く信仰を集め、遠方から参拝に来る信者で賑わったといいます。信者は病気の治癒を祈るとともに、当社に奉納されている馬わらじの片方と麻をいただいて帰り、全快すると新しい馬わらじと麻を当社に奉納しました。
 社前の道路は、俗に鎌倉街道といわれた古道で、この道が石神井川を渡るところが本来の「板橋」という説もあります。
平成9年(1997)3月 板橋区教育委員会


所在地 板橋区東新町2-36-5

 上板橋村役場跡
 江戸時代に川越街道の宿駅になっていた上板橋宿は、現在の弥生町・東山町・東新町・常盤台・南常盤台・桜川・上板橋・大谷口・大谷口上町・大谷口北町・向原・小茂根、そして練馬区の旭丘・小竹町を含む大きな村でした。明治5年(1872)の調査では、戸数405戸、人口は2367人でした。
 明治22年(1889)の町村制施行にあたってあ、江戸時代の村をいくつか合併して新町村が編成されるのが普通でしたが、上板橋は単独で上板橋村となりました。役場は、当初安養院の玄関や境内の建物を使用していましたが、昭和2年(1927)にこの場場所に新庁舎を建築しました。以後、昭和7年(1932)に上板橋村が東京市に併合されるまでの5年間、ここに役場が置かれていました。石柱はその当時に門柱として使われていたものです。
 この役場跡は、平成14年(2002)度に「一町三村役場跡地」として、板橋町役場跡、志村役場跡、赤塚村役場跡とあわせて、板橋区の文化財に登録しました。
 平成15年(2003)3月 板橋区教育委員会









所在地 板橋区東新町2-16

 氷川神社
 ご祭神は須佐之男命です。
 当社は、旧上板橋村字之根の地に鎮座して、古くから崇敬を集めてきました。創建は不明ですが、文政6年(1823)の「上板橋村書上帳」に「一御除地五反四畝歩 当所鎮守氷川宮地但宮・拝殿有之候 一御除地中田壱反八畝拾歩同社免」とあるので、江戸時代にはすでに旧上板橋村の鎮守として当地に鎮座していたと考えられます。
 当社の氏子の範囲は、旧上板橋村の南部に広がり、江古田駅前の浅間神社も当社の境外末社の一つです。なお浅間神社の境内にある富士塚は、昭和54年(1979)に国の重要有形民俗文化財に指定されています。
 当社の境内にある資料館は、この地域一帯が都市化により姿を変えていくなかで、往時の姿を保存するため、有志によって昭和46年(1971)に建設されたものです。収蔵品には、衣食住関係(衣服・炊事用具等)や生業関係(農具・工具等)、社会生活関係(防災用具・信仰関係)等があり、江戸時代から昭和までで千点余に及んでいます。昭和59年(1984)度に一括して板橋区の指定有形民俗文化財となりました。
 平成22年(2010)3月 板橋区教育委員会









 氷川神社には『戦没者之碑』があります。


所在地 板橋区南常盤台2-4-3

 天祖神社
 御祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
 当社の創建は不詳であるが、当社は近一帯が豊島氏によって開拓されたことを考えると室町時代には神社の形態をなしていたと思われる。江戸時代には神明社と称し、旧上板橋村の鎮守となっている。
 境内にある狛犬や絵馬などの奉納者に川越街道上板橋宿の住人の名が見え、宿場と深い結びつきがあった。
 寛政9年(1793)、蜀山人が当社を訪れた時の記録が残っているが、それによると、「神明宮ありて古松老松杉枝を交えて大なる柊もあり宮居のさまもわら葺きにて黒木の鳥居も神さびたり・・・」と書き記している。
 明治5年(1872)村社天祖神社と改称し今日にいたっている。境内にある弘化3年(1846)の狛犬に、円形のきずがあるが、これは昭和20年(1945)6月10日の空襲による爆弾の半片の跡。6月10日の空襲を伝える数少ない遺構の一つである。
 平成元年(1989)3月 板橋区教育委員会








                                 榛名神社






 


所在地 板橋区南常盤台2-11

 空襲犠牲者供養の地蔵(平安地蔵)
 昭和20年(1945)6月10日、午前7時55分より約2時間にわたり、この付近一帯はB29による空襲をうけました。『帝都防空本部情報』の記録によると、死者269名、重傷者86名、建物の全壊260戸、投下爆弾(250キログラム級)116個、罹災者2,467人、罹災世帯498世帯といわれ、実際にはこの数字より多い被害があったようです。
 戦後、亡くなった人々の供養と再びこの悲劇を繰り返すまいという誓いのもとに昭和23年(1948)6月10日、地元有志の人々が浄財を集め、おとな、子どもを表す大小の地蔵を造立、平安地蔵と命名しました。太平洋戦争を語る区内では数少ない史跡の一つです。
 平成7年(1995)度、板橋区の記念物に登録されました。
 平成9年(1997)3月 板橋区教育委員会


















所在地 板橋区弥生町12

 豊敬稲荷神社
 抑々 豊敬稲荷の建sつは江戸末期から明治の初期と思はれる 當時市神様として崇められていたが時代の変ると共に一民家の隅に遷つされていたが福本芳太郎大人が當地に赴任爾来敬神の念に厚い大人が本稲荷を発見調査の結果この様な地に存置すべきでないと自ら土地を境内地として購入祠宇を始め附属建物を工築し現在の地に御遷座名称も豊敬稲荷と命名さる 俗而昭和28年(1953)6月21日芳太郎大人他界の後も福本倫三氏は大人の意志を承継し其後神輿庫の新設に伴ない祠宇の見劣は勿論破損放置は亡父の意に反することを痛感し祠宇の改築を計画實第博次氏並びに役員一同と協議し一般崇敬者の協力を得て施工を加瀬工務店に委ね昭和36年(1961)1月起工爾後卓越せる技術と努力にて昭和37年(1962)6月竣工同年7月4日の吉日を撰び神社庁長を始め天祖神社総代稲荷神社役員参列のもとに竣工奉祝祭を執行後工作物及び境内地を含め天祖神社に奉献後昭和42年(1967)10月21日倫三氏他界松子夫人稲荷神社奉賛会長となり副会長及び世話人と協力を計り境内整備に力を注ぐ今回玉垣建設も会長崇敬者に依り完成せるものなり 依而後世の為に記す
 天祖神社宮司 小林猛男 
 世話人
境玉吉 栗原栄一 福本博次 長田仙蔵 川西与三次郎 小林正雄 ■井典治 大木光義 大野富蔵 浅子末三郎 大村實佐雄 森常太郎 小泉和三郎 石田順一 河原典一 松田良雄 飯島将功 小川与一郎 榎本光夫
会長 福本松子   書 松岡康景    石工 飯田順吾 
昭和47年(1072)8月吉日










所在地 板橋区弥生町~南常盤台

 下頭橋
 弥生町を縦断する道が旧川越街道で、大山町境から石神井川迄が上板橋宿跡である。宿端の石神井川に架かる下頭橋は、寛政10年(1798)近隣の村々の協力を得ることで石橋に架け替えられ、それまでひんぱつした水難事故も跡を絶ったという。この境内にある『他力善根供養』の石碑はその時に建てられたもの。
 橋の名の由来については諸説がある。一つ目は、旅僧がj面に突き刺した榎の杖がやがて芽をふいて大木に成長したという逆榎がこの地にあったから。二つ目は、川越城主が江戸に出府の際、江戸屋敷の家臣がここまで来て頭を下げて出迎えたから。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからというもので、六蔵祠はこの六蔵の道徳を讃えて建てられた。同橋と六蔵祠は昭和61年(1986)度の板橋区登録記念物(史跡)に認定された。
 平成6年(1994)8月 板橋区教育委員会


 


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