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東京都板橋区の歴史
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所在地 板橋区弥生町12

 豊敬稲荷神社
 抑々 豊敬稲荷の建sつは江戸末期から明治の初期と思はれる 當時市神様として崇められていたが時代の変ると共に一民家の隅に遷つされていたが福本芳太郎大人が當地に赴任爾来敬神の念に厚い大人が本稲荷を発見調査の結果この様な地に存置すべきでないと自ら土地を境内地として購入祠宇を始め附属建物を工築し現在の地に御遷座名称も豊敬稲荷と命名さる 俗而昭和28年(1953)6月21日芳太郎大人他界の後も福本倫三氏は大人の意志を承継し其後神輿庫の新設に伴ない祠宇の見劣は勿論破損放置は亡父の意に反することを痛感し祠宇の改築を計画實第博次氏並びに役員一同と協議し一般崇敬者の協力を得て施工を加瀬工務店に委ね昭和36年(1961)1月起工爾後卓越せる技術と努力にて昭和37年(1962)6月竣工同年7月4日の吉日を撰び神社庁長を始め天祖神社総代稲荷神社役員参列のもとに竣工奉祝祭を執行後工作物及び境内地を含め天祖神社に奉献後昭和42年(1967)10月21日倫三氏他界松子夫人稲荷神社奉賛会長となり副会長及び世話人と協力を計り境内整備に力を注ぐ今回玉垣建設も会長崇敬者に依り完成せるものなり 依而後世の為に記す
 天祖神社宮司 小林猛男 
 世話人
境玉吉 栗原栄一 福本博次 長田仙蔵 川西与三次郎 小林正雄 ■井典治 大木光義 大野富蔵 浅子末三郎 大村實佐雄 森常太郎 小泉和三郎 石田順一 河原典一 松田良雄 飯島将功 小川与一郎 榎本光夫
会長 福本松子   書 松岡康景    石工 飯田順吾 
昭和47年(1072)8月吉日








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所在地 板橋区弥生町~南常盤台

 下頭橋
 弥生町を縦断する道が旧川越街道で、大山町境から石神井川迄が上板橋宿跡である。宿端の石神井川に架かる下頭橋は、寛政10年(1798)近隣の村々の協力を得ることで石橋に架け替えられ、それまでひんぱつした水難事故も跡を絶ったという。この境内にある『他力善根供養』の石碑はその時に建てられたもの。
 橋の名の由来については諸説がある。一つ目は、旅僧がj面に突き刺した榎の杖がやがて芽をふいて大木に成長したという逆榎がこの地にあったから。二つ目は、川越城主が江戸に出府の際、江戸屋敷の家臣がここまで来て頭を下げて出迎えたから。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからというもので、六蔵祠はこの六蔵の道徳を讃えて建てられた。同橋と六蔵祠は昭和61年(1986)度の板橋区登録記念物(史跡)に認定された。
 平成6年(1994)8月 板橋区教育委員会


 


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