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東京都板橋区の歴史
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所在地 板橋区小豆沢3-7-9

開山堂

   曹洞宗 妙亀山 総泉寺

 御本尊釈迦如来。宗派曹洞宗。妙亀山と称する。

骨仏堂

 本寺はもと浅草の橋場の大寺で、創立は建仁元年(1201)2月。開基は千葉介。中興開基は16世紀中頃当時の石浜城主千葉介守胤。その後石浜城主千葉市の菩提寺となる。江戸時代になると江戸三刹の一つとして幕府の庇護をうけるとともに、秋田藩主佐竹氏の江戸での菩提寺となった。

地蔵堂

 ところが関東大震災で被災すると、昭和3年(1928)この地に移転してきて大善寺と合併した。

薬師堂

 境内に祀られている薬師三尊は、もと大善寺の本尊で清水薬師とも称され、清水坂の地名もこれによる。



 また地蔵堂に祀られている地蔵は、もと清水坂の中腹にあったもので、現在は子育地蔵として信仰をあつめている。なお、墓地内には佐竹侯や明治画壇の大家寺崎広業、大名松平忠良・忠憲父子の墓碑などがある。

    平成7年(1995)     板橋区教育委員会



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所在地 板橋区小豆沢3-7



    薬師の泉
 
 15世紀末、この地に、農民新見善左衛門は聖徳太子作と伝える薬師如来を本尊として大善寺を開基した。後、八代将軍徳川吉宗遊猟の途中立寄り、清泉に因んで「清水薬師」と命名したという。
 志村三泉の一つとも言われる豊かな湧泉は、中仙道を往来する旅人や江戸名所を訪ねる人々の信仰と憩いの場所として賑わった。
 大善寺は昭和の初め総泉寺と併合し、総泉寺亀山荘庭園が築造されたが、戦中戦後荒廃した。
 この度、板橋区は、「江戸名所図会」にまで登場する水と緑の名所を現代に再生すべく、学術的検討をふまえて江戸の風情を復元整備した。
      平成元年    板橋区





   薬師の泉庭園    板橋区指定記念物
 「境内山の腰より清泉沸出」と「江戸名所図会」(江戸時代の地誌)の挿絵に描かれた薬師の泉は、かつてこの地にあった大善寺という曹洞宗寺院の境内にありました。
 江戸時代、8代将軍徳川吉宗が志村周辺で鷹狩りをした際、大善寺に立ち寄り、境内湧き出す清水を誉めて、寺の本尊である薬師如来を「清水薬師」と命名したと伝わっています。
 この他にも、江戸時代の文献などには、薬師の泉や周辺の清水に関する記載が多く見られ、この地が古くから良質の水を産する土地であったことを物語っています。
 板橋区では、先の挿絵(下図)をもとに庭園整備を行い、平成元年(1989)12月に「薬師の泉庭園」を開園いたしましt。挿絵は、現在のあずまや付近から見下ろした境内の風景を描いています。画面左上に見える道は、中山道の清水坂です。泉の水は、中山道を通る旅人の喉も潤していたのでしょう。
 教育委員会では、この整備をうけえ、平成2年度、塔庭園を記念物にしていしました。
    平成10年(1998)3月
      板橋区・板橋区教育委員会・板橋区観光協会



   「江戸名所図会」(えどめいしょずえ)と薬師の泉
 「江戸名所図会」は神田雉子町の名主、斉藤幸雄、幸孝、幸成ら3代が40年の歳月をかけて天保7年(1836)に完成した江戸風俗地誌。絵は長谷川雪旦の筆になり精確と評価されている。
 図中、左上が中山道清水坂、階段を下り細流の橋を渡ると大善寺境内、右手のお堂が清水薬師で参拝者も描かれている。崖下に広がる池泉近くに湧出する清泉がある。これを地域の人々は「薬師の泉」と呼んで親しんできた。
   
   清水薬師
    清水坂
   境内山の腰より
      清泉沸出す
   故に清水の号あり
   此辺夏蘿葡(だいこん)を
        名産とす
     清水種とて
   世に賞しはべり
                    板 橋



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