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東京都板橋区の歴史
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所在地 板橋区東新町2-30-23

真言宗豊山派
 
 豊山派 武王山 安養院



本 尊   紅頗梨色阿弥陀如来(板橋区文化財指定)



開 基   最明寺殿時頼(北條時頼)鎌倉時代(1250年頃)

中 興   祐淳比丘 宝永元年(1704年)寂



総本山   長谷寺 奈良県桜井市初瀬

祖 師   宗 祖   弘法大師(空海)
       中興祖   興教大師(覚鑁)
       派 祖   専誉僧正

開 宗   真言密教は、インドより中国を経て平安時代に弘法大師により伝えられ、真言宗として広められました。

教え 真言宗は、宇宙の根本原理を説く大日如来の真言を信仰し体得することによって、私たちが本来備わる仏性に目覚め、この身がそのまま仏になれるという、即身成仏の教えと、大日如来の智慧と真理を示した曼荼羅のしそうにより、すべての世界を包括し蜜厳仏国土という思想の社会を築くことをめざしています。

延命大師堂

礼 所   弘法大師豊島88ヶ所霊場 第1番礼所

境 内   梵鐘(国重要美術品)・最明寺殿供養塔・13重塔
       修行大師像・四国88ヶ所御砂踏み霊場


常圓堂

 安養院には『梵鐘』、『修行大師像』、『カヤ』があります。
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所在地 板橋区東新町2-30-23 (安養院)

板橋区登録天然記念物(名木・巨樹・老樹等)
 
安養院のカヤ
     平成6年登録



 樹種、かや(イチイ科)。樹高、約16メートル。目通り、約360センチメートル。根回り、約380センチメートル。樹齢、約300年以上(推定)。
 このカヤは区内に現存するカヤのうち最大のもので、白蛇の住むという言い伝えもある巨木である。
 9月頃には楕円の実をつける。境内にあるため、環境条件にも恵まれ生育状況も良好である。また、この地域のカヤの多くは安養院のカヤの実生を移植したものと言われている。



 平成6年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。
    平成8年(1996)3月    板橋区教育委員会

 










所在地 板橋区東新町2-30-23 (安養院)

 四国御砂踏霊場開創修行大師像建立 由来之記

 真言宗の開祖 弘法大師空海は宝亀5年(774年)讃岐国(香川県)に生まれ、承和2年(835年)高野山にて御入定されるまでの62年の間、真言の教えを伝え広め、人々の幸福のために生涯を尽されました。また書道・芸術などにも優れた才能を示し、日本の文化史上にも大きな足跡を残されました。
 弘法大師は、若い頃から全国を修行行脚され、その霊験によって多くの人々に恵みを与えられました。自然の風光と穏やかな気候に恵まれた四国を一巡する88ヶ所霊場もそうした大師の修行の場で、今でも大師の御跡を慕って巡礼するお遍路さんの姿が絶えません。



 ここに当院では弘法大師修行像を建立し、併せて御砂踏み霊場を開創致しました。この修行大師像は彫刻家藤島茂氏の製作によるもので、真理を求め山野を跋渉し、遠く虚空を見据える若き大師さまの修行の姿を表しています。
 また御砂踏み霊場は四国大師霊場の御砂を集めたもので、蓮台の石の墓には88ヶ所の浄砂がそれぞれ収められています。古来、この御砂を踏んでお参りすることは四国の霊場を巡拝することと同じ大きな功徳があると伝えられております。どうぞ皆様の諸願成就、御健勝の為にお参り下さい。
 お参りは、お大師さまの正面より右廻りに一歩一歩蓮台を踏みしめ「南無大師遍照金剛」の御宝号を唱えつつ、合掌礼拝して御廻り下さい。「同行二人」の御心でお大師さまが皆様をあたたかく見守って下さいます。
                  南無大師遍照金剛

    平成3年(1991)4月吉日
                    武王山最明寺安養院
                    第67世和成敬白


所在地 板橋区東新町2-30-23 (安養院)

板橋区登録文化財
 安養院の梵鐘
     昭和59年(1984)登録



 御本尊阿弥陀如来。宗派真言宗豊山派。武王山最明寺と称する。
 創建年代は不明だが、寺伝によると北條時頼がこの地に一宇を建立したことに始まり、寺号の最明寺もこれにちなんだものと言う。「新編式蔵風土記稿」には、正保の頃までは時頼の御影堂や供養塚などがあったと記されている。
 本堂に安置されている紅頗梨阿弥陀如来像は、室町時代の作と言われ、羽を広げた孔雀の背の上にある蓮華座に坐す、類例の少ない仏像である。また、大師堂の釈迦四面像は、武田信玄の守本尊と伝え、厨子内に木片を組み上げて巌山を作り、四体の木造の釈迦像を配して釈迦の誕生から入滅までの姿を表している。
 境内の鐘楼の鐘は、元禄2年(1689)鋳造のものを享和2年(1802)に再鋳されたもので、鐘面を五区に画し、百字真言を梵字で表すもので、昭和24年(1949)に国の重要美術品に指定され、昭和59年(1984)板橋区の登録文化財となった。
  平成7年(1995)2月  板橋区教育委員会


所在地 板橋区若木1-13-1

   稲荷神社  

御祭神 保食神(うけもちのかみ)

例祭日 9月14日



 神社の創立年代は不詳です。当社の境内地は、稲荷大神(いなりおおかみ)が降臨した場所と伝えられ、「稲荷渡(とうかわたり)」と呼ばれていました。



 江戸時代は、中台村の鎮守で、延命寺(中台3丁目)がその別当(管理者)にあたっていました。
 神社に伝わる「四季農耕図絵馬」は、明治18年(1885)氏子の中台東組によって奉納されたもので、1年間の農作業の様子が「田の荒起し」から「代かき(しろかき)」「苗とり」・・・・・稲の収穫後の「まつり」まで順次描かれています。江戸時代から明治時代にかけての付近の農家の暮らしぶりが分かる貴重な資料として、昭和59年度、区の有形文化財に指定されました。
    平成11年(1999)3月   板橋区教育委員会



 稲荷神社には『稲荷神社のムク』があります。


所在地 板橋区若木1-13-1 (稲荷神社)

板橋区登録天然記念物(名木・巨樹・老樹等)
 稲荷神社のムク
     平成6年登録



 樹種、むく(ニレ科)。樹高、約25メートル。目通り、約460センチメートル。根回り、約580センチメートル。樹齢、不明。
 このムクは「稲荷越の大木」と呼びならわされて、中山道と川越街道を結ぶ間道の目標ともなり地域の人々に親しまれてきた。また航空路の目標として、白十字のしるしを頭上高くかかげていた時期もあった。
 現在の重姿は上部の枝が切られ、自然樹形はそこなわれているが、直立する主幹は堂々としている。
 ムクの木は、最近都市近郊ではあまり見られなくなった樹種で、関東以南の暖地のやや湿り気の多い地に自生する。このような樹種の巨木が残っていることは珍しい。
 平成6年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。
  平成8年3月 板橋区教育委員会

 


所在地 板橋区志村1-12板橋区小豆沢2-16

   志村一里塚

 江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604)2月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、五間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)の塚が江戸日本橋を基点として一里(4km弱)ごとに、道を挟んで2基ずつ築かれました。



 志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第3番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830)の「新編武蔵風土記稿」では「中山道住還の左右にあり」と紹介されています。



 幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚が昭和8年(1933)から行なわれた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。



 今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の2ヵ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正11年(1922)に国の史跡に指定され、昭和59年(1984)に板橋区の史跡に登録されました。

    平成17年3月    板橋区教育委員会


所在地 板橋区小豆沢3-7-9

開山堂

   曹洞宗 妙亀山 総泉寺

 御本尊釈迦如来。宗派曹洞宗。妙亀山と称する。

骨仏堂

 本寺はもと浅草の橋場の大寺で、創立は建仁元年(1201)2月。開基は千葉介。中興開基は16世紀中頃当時の石浜城主千葉介守胤。その後石浜城主千葉市の菩提寺となる。江戸時代になると江戸三刹の一つとして幕府の庇護をうけるとともに、秋田藩主佐竹氏の江戸での菩提寺となった。

地蔵堂

 ところが関東大震災で被災すると、昭和3年(1928)この地に移転してきて大善寺と合併した。

薬師堂

 境内に祀られている薬師三尊は、もと大善寺の本尊で清水薬師とも称され、清水坂の地名もこれによる。



 また地蔵堂に祀られている地蔵は、もと清水坂の中腹にあったもので、現在は子育地蔵として信仰をあつめている。なお、墓地内には佐竹侯や明治画壇の大家寺崎広業、大名松平忠良・忠憲父子の墓碑などがある。

    平成7年(1995)     板橋区教育委員会





所在地 板橋区小豆沢3-7



    薬師の泉
 
 15世紀末、この地に、農民新見善左衛門は聖徳太子作と伝える薬師如来を本尊として大善寺を開基した。後、八代将軍徳川吉宗遊猟の途中立寄り、清泉に因んで「清水薬師」と命名したという。
 志村三泉の一つとも言われる豊かな湧泉は、中仙道を往来する旅人や江戸名所を訪ねる人々の信仰と憩いの場所として賑わった。
 大善寺は昭和の初め総泉寺と併合し、総泉寺亀山荘庭園が築造されたが、戦中戦後荒廃した。
 この度、板橋区は、「江戸名所図会」にまで登場する水と緑の名所を現代に再生すべく、学術的検討をふまえて江戸の風情を復元整備した。
      平成元年    板橋区





   薬師の泉庭園    板橋区指定記念物
 「境内山の腰より清泉沸出」と「江戸名所図会」(江戸時代の地誌)の挿絵に描かれた薬師の泉は、かつてこの地にあった大善寺という曹洞宗寺院の境内にありました。
 江戸時代、8代将軍徳川吉宗が志村周辺で鷹狩りをした際、大善寺に立ち寄り、境内湧き出す清水を誉めて、寺の本尊である薬師如来を「清水薬師」と命名したと伝わっています。
 この他にも、江戸時代の文献などには、薬師の泉や周辺の清水に関する記載が多く見られ、この地が古くから良質の水を産する土地であったことを物語っています。
 板橋区では、先の挿絵(下図)をもとに庭園整備を行い、平成元年(1989)12月に「薬師の泉庭園」を開園いたしましt。挿絵は、現在のあずまや付近から見下ろした境内の風景を描いています。画面左上に見える道は、中山道の清水坂です。泉の水は、中山道を通る旅人の喉も潤していたのでしょう。
 教育委員会では、この整備をうけえ、平成2年度、塔庭園を記念物にしていしました。
    平成10年(1998)3月
      板橋区・板橋区教育委員会・板橋区観光協会



   「江戸名所図会」(えどめいしょずえ)と薬師の泉
 「江戸名所図会」は神田雉子町の名主、斉藤幸雄、幸孝、幸成ら3代が40年の歳月をかけて天保7年(1836)に完成した江戸風俗地誌。絵は長谷川雪旦の筆になり精確と評価されている。
 図中、左上が中山道清水坂、階段を下り細流の橋を渡ると大善寺境内、右手のお堂が清水薬師で参拝者も描かれている。崖下に広がる池泉近くに湧出する清泉がある。これを地域の人々は「薬師の泉」と呼んで親しんできた。
   
   清水薬師
    清水坂
   境内山の腰より
      清泉沸出す
   故に清水の号あり
   此辺夏蘿葡(だいこん)を
        名産とす
     清水種とて
   世に賞しはべり
                    板 橋



所在地 板橋区前野町3

   前野町(くまのちょう)地区の遺跡と前野町熊野北遺跡

 前野町3丁目から5丁目にかけては、泉町24番の区立清水児童遊園部分の湧き水を主な源泉として、現在の首都高速5号線部分を流れていた出井川に沿い、古くから数多くの集落(むら)が営まれていました。
 昭和10年代、前野町を含む志村一帯は関東大震災を契機とした土地区画整理が行われ、遺跡の発見が相次ぎました。特に前野町地域は弥生時代後期から古墳時代前期(今から約1700年前)にかけての集落が数多く発見され、それらから採集された土器は、南関東地方の弥生時代終末の標識型式として「前野町式」と名づけられたため、前野町の地名は広く考古学界に知れわたりました。なお。それたの標識となった土器の多くは前野町4丁目の常楽院に保存されており、東京都指定有形文化財となっています。
 前野町熊野北遺跡は、この案内板を中心に周囲約50~100メートルの広がりをもつ遺跡で、昔の地名(字あざ)「熊野」の北域に位置しているところから名づけられています。平成10年(1998)8月、前野町熊野北遺跡範囲内の前野町3丁目44番におけるニッカン三次ハイツ建設計画に伴い区教育委員会が試掘調査を行なったところ、遺跡が残っていることが確認されたので平成10年(1998)8月から9月にかけて本調査を実施しました。ここは昭和13年(1938)当時工場建設に際し遺跡の存在が確認され、弥生時代後期の集落遺跡前野町遺跡第1地点と呼ばれた場所でもありました。本調査の結果、弥生時代後期の集落は以前の工場建設に伴う整地により残っていませんでしたが、今まで確認されていなかったそれより古い縄文時代後期(今から約3800年前)の住居跡3軒と、煮炊きなどに使用した土器の破片などが数多く発見され、前野町地区の歴史に新たな事実が追加されました。
    平成13年(2001)3月   板橋区教育委員会


所在地 板橋区東山町48-4

・山号   東光山
・本尊   薬師如来
・開基   長栄和尚
      寛文10年11月24日寂
・宗派   真言宗豊山派
・総本山  長谷寺 奈良県桜井市初瀬
・祖師   宗祖   弘法大師(空海)
      中興祖  興教大師(覚鑁)
・派祖   専誉僧正
・開宗
真言の教えは仏教の真髄を説く密教としてインドに起こり、中国を経て平安時代に弘法大師によって日本に伝えられ真言宗として成立しました。
・教え
「真言」とは、仏さまの境地やお徳を表した真実の言葉です。宇宙の根本となる大日如来の真言として示される教えを私たちが信仰し体得することによってこの身がそのまま仏さまになれる事を示したのが真言宗の教えです。更に曼荼羅の思想は大日如来の智慧と真理を展開した教えで、これによってすべての世界は大日如来の総徳に包括されるのです。真言宗はこの教えに基き、理想の社会をめざします。



東光山医王院長命寺 

宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来立像

 『新編武蔵風土寄稿』に「開山、長栄、寛文10年(1670)11月24日寂す」とあり、伝存する過去帳も承応元年(1652)から書き始められていることから、当寺は江戸時代の前期にはすでに創建されていたと考えられます。江戸時代には、天祖神社(南常盤台2丁目)や氷川神社(東新町2丁目)をはじめ付近の神社の別当(管理者)でもありました。
 明治時代には、豊島88霊場の21番札所にもなり、また いたばし七福神の一つ福禄寿も祀られています。
 当寺周辺は、室町時代「お東山」にあったといわれる板橋城跡の伝承地の一つでもあります。

 平成11年(1999)3月 板橋区教育委員会


所在地 板橋区大原町40-7

山号
   挙一山 遍照院
本尊
   不動明王
宗派 
  真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)
総本山
  長谷寺 奈良県桜井市初瀬
祖師 
  宗祖   弘法大師(空海)
  中興祖  興教大師(覚範)
  派祖   専誉僧正
開宗
  真言宗は、平安時代初期に弘法大師によって、中国からもたらされ、わが国で開宗されました。
教え
  大日如来を中心とした曼荼羅思想などです。
礼所 
  豊島八十八ヶ所霊場 第14番
読誦するお経
  般若理趣経・光明真言などです。
ご宝号
  南無大師遍照金剛・南無興教大師・南無尊誉僧正
文化財
  板橋区文化財・阿弥陀如来立像
行事
  施鋨鬼会(5月28日)
  春秋彼岸会



 宗派は真言宗豊山派で、挙一山遍照院長徳寺と号し、御本尊は不動明王です。
 鎌倉時代初期に中興開山されたと伝えられていますが、いくどか火災にあっているので、江戸時代初期以前のことはよくわかりません。江戸時代後期に書かれた新編式蔵風土記稿には、寛保3年(1743)に鋳造された鐘があったことが記されています。また、かつては大日如来像が御本尊で、子育大日尊として信仰を集めていました。しかし、これらは昭和20年(1945)4月13日の空襲によって、本堂とともに焼失してしまいました。
 当寺には、区内で一、ニを競う古い仏像があります。平安時代末につくられたもので、平泉の中尊寺に由来すると伝えられる阿弥陀如来の木像です。戦後の再建時に受け入れられました。この仏像は平成4年度に板橋区の有形文化財に指定されています。
 また、境内には、さまざまな石仏や力石が数多く残されています。
  平成14年(2002)3月   板橋区教育委員会


所在地 板橋区加賀1-8 (加賀公園)

 江戸時代に成立した参勤交代制度により、大都市江戸には日本各地から多くの大名が集まり、その華族や藩士、奉公人などとともに日常生活を送っていました。そして、各大名に対しては、将軍より屋敷地が下賜されました。
 延宝8年(1680)の段階で、加賀藩前田家は本郷邸(現:東京大学周辺)を上屋敷に、駒込邸を中屋敷(現:本駒込6丁目周辺)に、板橋宿に面する平尾邸(現:加賀1・2丁目、板橋3・4丁目周辺)を下屋敷に定めています。上屋敷は藩主と家族が住む公邸に、中屋敷は隠居した藩主などの住居に利用されました。
 下屋敷の平尾邸は、約21万8千坪に及ぶ広大な敷地があり、尾張・紀伊水戸の徳川御三家を含めて、江戸に所在する大名屋敷では最大の広さを持つ屋敷でした。邸内には石神井川が流れ、その水流と千川用水の配水を利用した大池が設けられ、築山や立石、滝などが各所に配された池泉回遊式庭園が展開していました。その規模は本国金沢にある有名な大名庭園、兼六園の約7倍の広さがあります。


         <加賀藩江戸下屋敷絵図>前田育徳会尊経閣文庫所蔵

 平尾邸は、通常は藩主と家族のための別荘として使われており、かれらが保養や散策に訪れ、時には鷹狩や花火などが行われました。また、幕末には園遊会も催され、その席に招かれた松平容保をはじめとする会津藩の人びとは、邸内の様子を「まるで桃源郷のようだ」と表現しています。
 なお、当邸が中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代時に前田家の藩主が休息をとり、江戸へ出入りする際の装束替えの場としても利用されました。また、その家族や家臣による送迎の場にもなっていました。 
 邸内には与力を筆頭に50人ほどの詰人がおり、その大半は定番足軽と呼ばれ、ここを管理していました。彼らは代々平尾邸に在番し、板橋宿や蓮沼村をはじめとする板橋区周辺地域の名主などの娘と婚姻関係を結ぶ人もいました。なかには板橋宿の寺子屋の師匠として、地域の教育にあたるなど、地元板橋との密接な関わりが見られます。
 幕末になると、加賀藩も世情の影響を受け、邸内でオランダ式ゲベール銃を使った調練を実施しています。また、石神井川の水流を利用して大砲の製造を行っています。明治期以降には、平尾邸の大半は、同じく石神井川の水流を利用し火薬を製造する、板橋火薬製造所(後の東京第二陸軍造幣廠)となります。
 なお、現在、平尾邸の面影は、わずかにここ加賀公園に残る築山の一部だけとなっています。
 平成21年(2009)3月  板橋区教育委員会


所在地 板橋区加賀1-8 (加賀公園)

 板橋区は、平成20年(2008)7月9日の金沢市との友好交流都市協定締結を記念し、加賀藩江戸下屋敷の築山にあたる加賀公園に、この記念碑を設置しました。
 モデルとしたのは、金沢のシンボルともなっている尾山神社神門第三層のステンドグラスです。



        尾山神社  神門
 尾山神社は、加賀藩祖前田利家公並びに、その夫人お松の方を奉斎する神社で、二代藩主前田利長公が、慶長4年(1599)12月に金沢城の鬼門にあたる卯辰山麓に、利家公の霊を祀る卯辰八幡社を建立したのが始まりとされています。その後、金沢市の中心部にあたる現在地(石川県金沢市尾山町11番1号)の旧金谷御殿跡に、明治6年(1873)社殿が新設され、神霊を遷座し社名も尾山神社と改められました。
 国の重要文化財として指定されている尾山神社の神門は、社殿造営後の明治8年(1975)に建立されました。和漢洋の三様式を混用した異色の門として早くから全国に知られ、兼六園と共に金沢のシンボルともなっています。オランダ人ホルトマンの設計との説もありますが、棟札によると、建築総管は藤田貴知であり、工匠長は四面五色のギヤマン張り(ステンドグラス)で、もとは御神灯が点灯され、その放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する帆船の目標とされたものです。なお、第三層目に設置された避雷針は、日本最古のものと言われています。


所在地 板橋区加賀1-8 (加賀公園)

 区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀1・2丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。
 軌道は、北区十条の銃包製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。



 現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公演・野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正12年(1923)の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。
 なお、板橋火薬製造所は昭和15年(1940)に東京陸軍第二造幣廠(ニ造)に改組されています。
 また、この軌道は幅が750mmの珍しいもので、そこを走る電気機関車は、その車体の形状から「だるま電車」とも、走りながら鐘を鳴らしたことから「チンチン電車」とも呼ばれていました。


所在地 板橋区板橋4-55

 江戸時代、この板橋3・4丁目、加賀一帯は加賀藩の江戸下屋敷でした。明治になると板橋3・4丁目周辺は三合商会の所有地となり「三合野原」、「三五ヶ原」と呼ばれました。その後、小樽を基盤とした船運会社板谷商船の設立者初代板谷宮吉氏が取得し、昭和4年(1929)に東京市電が板橋まで延長したのを契機に、二代目宮吉氏(貴族院議員等も歴任)が昭和10年(1935)1月、区画整理による大規模住宅地「上御代の台(かみみよのだい)」の造成に着手しました。



 当時、国は区画整理に際しては公園用地の確保を求めており、それを受け、東京市は土地の無償提供を条件に公園造成を代行する規定を設けていました。当公園はこの規定により、板谷氏の用地提供を受けて同市が施行し、昭和12年(1937)4月29日に東京市板谷公園として開園しました。なお、その際に設置された銘板が、ニか所の出入口の門柱に残っています。その後、昭和18年(1943)の都制施行により都立公園となり、昭和25年(1950)10月1日には板橋区に移管されました。



 この公園は、区内に現存する公園の中で開園時期が最も古く、また、その来歴にこの地域の歴史がよく反映されている事から、平成21年(2009)3月に区の登録文化財(史跡)となりました。
 平成21年(2009)9月  板橋区教育委員会


所在地 板橋区桜川1-4-6 (都立城北中央公園)

 御嶽神社
 創建年代は不詳。旧上板橋村栗原(現・桜川の一部)・七軒屋(現上板橋)の氏神として、倭建命(やまとたけるのみこと)・兼山昆古命(かなやまひこのみこと)・兼山昆賣命(かなやまひめのみこと)を祭神とする。
 栗原の地は、康正2年(1456)、太田道灌が千代田村(現・皇居)に江戸城を築く際、同村宝田の住民を移動させたところとされ、この時村内に祀ってあった稲荷(現・宝田稲荷)もこの地に遷座させたという伝承もあって、往古より開けた土地柄であった。
 当神社もその頃、信州の御岳山(一説に甲州)を勧請したと伝えられる。境内にある嘉永7年(1854)銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、同型のものとしては都内でも有数の古さを誇っている。
 毎年3月8日に行われる昆謝祭には、強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(逢来山)を神前に供える風習が残されている。
 平成4年(1992)3月 板橋区教育委員会














所在地 板橋区小茂根1-5

 根ノ上遺跡
 この根ノ上遺跡緑地の下には遺跡が保存されています。
 このあたりは昭和10年代から遺跡の存在が知られており、古い地名から根ノ上遺跡と呼ばれていました。
 昭和59年(1984)この部分の開発に先立ち発掘調査が実施され、旧石器時代から太平洋戦争時までの遺構や遺物が発見されました。
 とくに今から約1,700年前の弥生時代後期には、周囲に深い堀をめぐらして(環濠)ムラを営んでおり、その変遷の一部がわかるなど多くの成果が得られました。ムラの中には火災にあった家も存在し(火災原因は不明です)、その家の跡(住居跡)には当時の炊事道具や食器など一式が焼け残っており、当時の人々にとっては災難でしたでしょうが、生活状況の一部がよくわかる大変良好な資料となりました。
 調査終了後、板橋区では東京都住宅局の協力を得て遺跡の一部を埋め戻して保存するとともに、発見された住居跡を型取りをして再生復元したり、その真上に花だんや砂場をつくり、位置や大きさを示しました。また図書館内の床にも、堀(環濠)などが発見された位置を色を変えて示してあります。
 この根ノ上遺跡緑地部分と発掘された弥生式土器は、平成9年(1997)度に板橋区の文化財に指定されました。
 平成11年(1999)3月 板橋区教育委員会










所在地 板橋区小茂根5-17

 茂呂遺跡
 通称”オセド山”と呼ばれるこの独立丘陵は、以前から縄文時代早期の土器破片の散布地として知られていました。
 昭和26年(1951)3月、ここを通りかかった一中学生が、この栗原新道を切通し断面の関東ローム層(赤土)中より、黒曜石製の石器と礫群の露出を見つけました。
 この発見がもとで、同年7月明治大学と武蔵野郷土館とが共同で、関東ローム層中に残された旧石器文化(先土器文化・岩宿文化とも呼ばれています)の発掘調査を行いました。その結果「茂呂型ナイフ」と呼ばれる特徴的な石器の存在が明らかになり、日本の旧石器文化研究の端緒となった岩宿遺跡(群馬県)とならび考古学研究史上特筆される成果が得られました。
 昭和44年(1969)、この丘陵の一部は都の史跡(考古)に指定され、さらに昭和60年(1985)には板橋区登録記念物に認定されました。
 平成7年(1995)2月 板橋区教育委員会









所在地 板橋区上板橋1-19先

 五本けやき
 昭和のはじめ、東京の郊外に都市化の波が広がっていったが、これにともない、都市計画道路工事も相次いで行われた。
 新川越街道(現・国道254号)も、この一環として新設された道路の一つで、昭和2年(1927)に計画されており、このうち板橋区内の工事は9か所に分けられ、昭和8年(1933)から昭和19年(1944)にかけてそれぞれ完成をみている。
 当初、旧川越街道と区別することもあって改正道路と称していた時期があった。
 され、五本けやきは元上板橋村々長・飯島弥十郎家の屋敷林の一部であった。道路用地となったため、切り倒される予定であったが、同家の強い要望もあって工事はこの木を避け、昭和13年(1938)~翌昭和14年(1939)にかけ完成した。
 武蔵の面影を残す五本けやきは、ドライバーの疲れを癒すオアシス的存在であり、昭和45年(1970)には地元の有志によって五本けやき保存会も発足し、その保護に努めている。
 平成3年(1991)10月 板橋区教育委員会









所在地 板橋区上板橋2-2

 子育て地蔵尊
 当地に安置されている地蔵は、通称「子育て地蔵」と呼ばれ、人びとに広く親しまれています。お堂の中にある二体の地蔵は、もともと桑原堰の一本橋(現在の桜川1丁目5番地)付近に建っていたものといわれていますが、それを裏付けるように、石仏の台座や本体には貞享5年(1688)や安永6年(1777)といった造立された年号や、上板橋村桑原を中心として奉納者の名前が刻まれています。
 明治初年に、これらの地蔵は川越街道に面した「ガッカラ坂」と呼ばれる当地に移されたといわれています。大正3年(1914)、川越街道と東上鉄道(現在の東上線)の上板橋駅を結ぶ道(現在の上板南口銀座)が通じた時には、両道が交差した角地に据えられていましたが、この時すでに地蔵は倒され、放置された状態であったといわれています。また、移転した当初には三体あった地蔵も、いつしか二体となっていたといいます。
 その当時、宝田豆腐店主であった宝田半二郎氏は、地蔵が荒れ果てた状況にあったことを憂慮し、大正12年(1923)頃に店舗に隣接した現在の場所へと地蔵を移しました。さらに昭和10年(1935)頃になると、半二郎氏の子息である宝だ源蔵氏と七軒家の木下仙太郎氏が中心となって、地蔵をお祀りする地蔵講を結成しました。議員も三百名をかぞえたといわれています。
 都市化がすすんだ現在も、子育て地蔵は、人びとの素朴な願いを引き受ける仏様として、商店街を中心に大切に守られ、お祀りされています。また、4月から9月にかけての7のつく日には、地蔵堂の前の旧川越街道で縁日が開かれるなど、地域の活性化にも一役かっています。
 
 平成19年(2007)7月7日 上板橋子育 地蔵講












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