東京都板橋区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 板橋区加賀1-8 (加賀公園) 区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀1・2丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。 軌道は、北区十条の銃包製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。 現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公演・野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正12年(1923)の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。 なお、板橋火薬製造所は昭和15年(1940)に東京陸軍第二造幣廠(ニ造)に改組されています。 また、この軌道は幅が750mmの珍しいもので、そこを走る電気機関車は、その車体の形状から「だるま電車」とも、走りながら鐘を鳴らしたことから「チンチン電車」とも呼ばれていました。 PR |
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